昨日は65年目の開戦の日

今から65年前の昨日は、太平洋戦争が勃発した日です。

1941年12月8日(ハワイ時間で7日)、日本はイギリス領マラヤのコタ

バル(マレー半島北東岸)への上陸を開始、さらにハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地

を奇襲攻撃し、事実上の戦闘状態にはいった。真珠湾攻撃では、日本の奇襲部隊が戦艦4

隻を撃沈したほか航空機231機を破壊するなどアメリカに大損害をあたえたが、日本のア

メリカへの宣戦通告が奇襲後となったため逆にアメリカの士気は高まり、「リメンバ

ー・パールハーバー(真珠湾をわすれるな)」が合言葉となった。

また、目標であった米主力空母は港から逃れて無事であり、また艦船への攻撃を集中させた為

ドッグなど施設の被害は少なく、結果、真珠湾の復旧は早く進むこととなってしまったのである。

同日、アメリカとイギリスが対日宣戦を、11日にドイツとイタリアが対米宣戦を布告し、世界戦争へと発展し

た。 ついで日本軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力、

当時最新鋭戦艦プリンスオブウェールズやレパルスを全滅させ、

先制攻撃による勝利をえた。開戦後ほぼ半年のうちに、日本は香港・マレー半島シンガポール・フ

ィリピン・オランダ領東インド(蘭印:現インドネシア)・ビルマ(現ミャンマー)など西

太平洋および東南アジアのほとんどの地域を占領、緒戦は日本優位のうちにすすんだ。

しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で日本が敗北、

正規空母4隻、機動部隊の大半を失い、優秀な人材を数多く失い大敗を喫する。

制海・制空権をうしなったことを契機に戦局は逆転。

同年後半からアメリカ軍を中心とする連合国軍が本格的な反攻を

開始し、翌年以降、日本軍はガダルカナル島アッツ島からの撤退をはじめとして、

次々と後退を重ねた。

日本占領下の東南アジア 日本はこの戦争の目的を、欧米諸国の支配からアジアを解放

し、共存共栄の大東亜共栄圏をつくりあげることだとして、1943年にはビルマやフィリ

ピンの独立政府を承認したが、その実権は日本の手中にあった。占領地域では、石油・

ゴム・ボーキサイトなどの資源を強引に調達し、現地住民を土木工事などにあたらせた

ほか、神社参拝の強制などをすすめたため、しだいに反日気運が高まった。とくにシン

ガポールやフィリピンでは、日本軍は多数の住民を殺害するなど残虐行為をおこなった

ため、抗日運動が各地にひろがっていった。 いっぽう日本国内では、政府・軍部による

戦時国家体制が確立された。1942年に東条内閣の翼賛選挙により翼賛政治会が発足、ま

た大日本言論報国会が結成され、きびしい言論・思想統制がおこなわれた。戦争がはげ

しくなると、あらゆる生産能力が軍需目的にむけられ、生活物資が不足し、「ぜいたく

は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語に象徴されるように国民は耐乏生活

をしいられた。日本の敗色が濃厚になった44年ごろからは学童疎開もはじまった。いっ

ぽう、労働力不足をおぎなうため、勤労動員によって学生たちが軍需工場などにかりだ

されたほか、占領地域から多数の朝鮮人や中国人を強制連行し、鉱山・港湾などで重労

働に従事させた。朝鮮に対しては44年から徴兵制を適用、日本人に同化させる政策を強

化し、日本語の使用や、日本的家制度を導入するとともに、氏名を日本風にするなどを

強制した。43年には学徒出陣もはじまった。 V第2次世界大戦の終結と日本の敗戦 1943

年、アメリカ・イギリス・中国(蒋介石)の3カ国首脳がエジプトのカイロで会談し(カイ

ロ会談)、日本への徹底攻撃と日本の植民地を独立または返還させる内容のカイロ宣言

発表。同年にはイタリア南部シチリア島に米英連合軍が上陸、枢軸国側の一角がくずれ

た。日本軍の敗色も濃厚となった。44年6月、最後の防衛線としていたマリアナ沖海戦で

航空戦力の7割を喪失。

空母3隻を失い、日本海軍機動部隊は壊滅的被害を受け、

マリアナ諸島から撤退。

3月からのビルマからインド北東部へ進攻した

インパール作戦も失敗して7月に中止、同月のサイパン島の陥落を機に東条内閣は退陣し小

磯国昭内閣が成立した。 1944年7月にはアメリカ軍はグアム島に上陸、8月に1万8000人

の犠牲をだして日本軍は陥落した。さらに10月のフィリピンのレイテ沖海戦で日本の

連合艦隊すべての力を使った最後の決戦も敗退に終わり、

敗戦はもはや時間の問題となる。

このとき神風(しんぷう)特別攻撃隊がはじめて出撃した。

同月アメリカ軍はついにフィリピンに上陸し、

11月からは戦略爆撃機B29による日本本土空襲が本格化した。

1945年3月の東京大空襲では約10万人が死亡、日本のおもな都市は空襲で焼け野

原と化した。3月の硫黄島の戦での玉砕につづいて、4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上

陸をはじめ、この沖縄戦で日本側は多くの非戦闘員をふくむ約18万8000人の死者をだし

た。ほぼ3カ月にわたる沖縄戦では、ひめゆり隊の編成で女子生徒らが動員され悲劇的な

最期をとげたほか、日米両軍による県民虐殺事件がおこった。ヨーロッパでは5月ついに

ドイツが降伏、7月にアメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチルソ連首相

スターリンの3カ国首脳がベルリン郊外のポツダムで会談し、日本の無条件降伏をもとめ

ポツダム宣言を発表した。小磯内閣をひきついだ鈴木貫太郎内閣は、ソ連を仲介とす

和平工作をすすめたが、すでにソ連は対日参戦の密約を2月のヤルタ会談でとりきめて

いた。 アメリカは日本のポツダム宣言拒否を理由に、1945年8月6日に広島、ついで9日

に長崎に原子爆弾を投下、この間の8日にはソ連が日本に宣戦布告して満州(中国東北

部)・樺太(サハリン)・千島列島などへの進攻を開始した。原子爆弾による被爆当日の死

者は広島で約2万5375人、長崎で約1万3298人、その後の両市の被爆による死者は合計約

30万人と推定されている(厚生省:1990)。日本政府と軍首脳部は天皇の裁断によってポ

ツダム宣言の受諾を決定し、14日に連合国側に通告、15日には天皇自身のラジオ放送(玉

音放送)を通じて、国民に知らせた。


やっぱり平和は大事だな、みなさんも平和について考えてみてはどうでしょうか。

今日は映画硫黄島からの手紙を観てきたのですが、感想や思った事も色々あったのですが、今度書こうっと。