杉原 千畝(1900 - 1986)

koumei03032005-10-12

録画してあった杉原千畝のドラマをみま〜さ。

どのような琴をした人かは知ってましたが、ドラマを観るのは初めてだったので、

感動しま〜さ。あんな立派な人もいるんですねぇ。

あんな菅谷しい琴をしたのに、戦後外務省は杉原千畝を解雇しています。

情けない、外務省ダメダメだな。

菅谷しい功績を残したのだから、歴史教科書に載せても良いと思うのですが、

文部科学省もダメだな。

このような琴をした人です(すいやせん八百津町HP少し引用させてもらいま〜さ)

「1940年7月18日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目をさましました。領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいます。すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々でした。
 前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大。ナチスユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいました。収容所に入れば悲惨な運命が。大量虐殺…ホロコースト
 そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせたのです。当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかったのです。
 このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。
 「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けました。」


記念館見に行きたいけど岐阜県かぁ、遠いなぁ。